携帯で日記を書くということ

 1997年ですから今からちょうど7、8年前、携帯電話の技術マーケティングをしていました。 当時の携帯はモノクロ液晶で3、4行の文字表示が出来る程度、とにかく安定した通話(よく切れていたんです)と小型化(100gを切るのが目標でした)が開発課題、ユーザー数もやっと1000万人、そんな時代でした。
 「いつでも、どこでも、だれとでも」というキーワードは当時からあったのですが、具体的なシステムが提案されることはなく、みな漠然と使っている状態でした。 そのなかで携帯電話の商品企画を担当している部署から、カラーの液晶でカメラが付いて情報が見れるようなイラストとモックアップが出てきました。 そのコンセプトを見たとき、これは面白いと思いました。 また甲南大の奥野先生の言葉が思い出されました。
 というのも、その2年ほど前に甲南大の奥野先生とお話する機会があり、95年に阪神大震災に遭われていた先生は「これからの機器はインターネットに繋がらないと駄目だ、繋がらないものはガジェットだ」としきりにおっしゃってました。 阪神大震災を最初に世界に伝えたのはTVでもラジオでもない、インターネットだったのです。
 携帯電話とインターネットの接続・・この将来について考えていたとき、98年の2月にアトランタで開かれたワイヤレスショーを見てこいと言われ、初めて海外出張することになりました。 事前にそのキーワードでインターネットで調べていたところ「Unwired Planet」という会社がWAP(Wireless Application Protocol)という仕組みを提案しているのが引っかかりました。 どうやらNokiaMotorolaも賛同しているらしいことが判りました。
 ところが2月にアトランタの会場で見かけた「Unwired Planet」という会社は机ひとつ分のスペースに説明者()がサンプルの携帯電話を1台持っているだけといった展示なのでした。 そこで、自分は日本でCDMA携帯電話の開発をおこなっている技術者で、このシステムに非常に興味がある等々しゃべって名刺交換をしたのでした。 日本に帰ってしばらくしたらそのUP社から電話がかかってきました。 早速、商品企画をやっていた担当者に話をして一緒に打ち合わせを持ちました。 聞くと実装するのに数100KBで可能とのこと。 専用のキーアサインがあるに越したことはないが、無くても何とか使える。 専用のプロキシーサーバをキャリアに立ち上げる必要がある・・ということで開発検討をすることにしました。 うちの会社が日本で最初の取り組みであり、携帯電話へのソフト開発という概念すらなかった時代なので、費用も格安?でした。
 UP社と突貫作業を行い、お互いの技術者の協力の結果、翌年の4月にはブラウザソフトを組み込んだ最初のCDMA機種が市場に出たのでした。 ちょうどその直前に「i-mode」サービスも始まったのですが、当初思ったようにサービス加入者が増えず、社内では「携帯にブラウザを載せてどうするんだ? そんなものが売れるのか?」という声ばかりが聞こえていました。
 しかしながら、i-modeサービスがパケットデータでサービスを行ったのに対して、最初のサービスは回線交換でデータのやり取りを行っていたため通話料がどんどんかさみ、とても使えるものではありませんでした。 キャリアもこのことは認識しており、1年を待たず翌年の1月にはパケットサービスへ移行しました。 加えて、4和音の着信用LSIを開発しこれを搭載した機種を初めて市場に出したところ、大うけしました。 同時にブラウザから着信音をダウンロードするサービスも可能にしました。 いまでは当たり前のサービスを最初に開発したわけですが、ダウンロードするメロディーも音源会社と一緒になってデータを作りこんだのでした。
 このころ携帯電話の画面は未だモノクロで数行の文字を表示するだけのものでした。 その中でビット表示で画面を構成するUIを持った機種も現れつつありました。 聞くと、デザイナーと設計者が画面の1ドットを白か黒かで議論しながら仕様を決めているとのことでした。 翌年の機種に向けてフレンドリーUIを開発するよう、設計に強く進言しました。 ちょうど、2"弱のカラー液晶が開発されたこともあり、その機種はCDMAで初めてカラー液晶を搭載することになりました。 カラー液晶といえば、待ち受け画面のダウンロードですが、これもキャラクター会社と最初に取り組みました。 当時は液晶パネルも限られており、パネルの入手が量産のネックで、設計の部長はパネル確保に飛び回る毎日でした。
 このころ開発のロードマップとして、「JAVA」搭載によるゲーム、「GPS」搭載による位置連動コンテンツ、「カメラ」搭載による画像メール、「動画」ダウンロード・・は計画ができていました。 ただ、折りたたみ構造は電話機としての性能を確保する難易度が高く、また他社特許が有力であり、設計チームからはいつも開発を断られていました。 当時、1キャリアへ1機種をシリーズに納めるだけのビジネスであったため、開発の遅れは即予算未達につながるため、開発に冒険ができない状況だったのです。
 ソフト開発がだんだん巨大化し、キャリアの要求も高まってくる中、ソフト開発に注力しているうちに他社から折りたたみタイプの携帯が続々商品化され、だんだん市場シェアが低下していました。 しかしながらまだやれるまだやれる・・の意識から抜け出せず結果として市場ニーズに合わない機種を開発していました。 それに追い討ちを掛けたのがカメラ搭載機種です。 私の計画では「2001年10月にカメラ搭載機種投入」だったのですが、回りの設計チームからは「時期尚早」の声が強く、コストの点からも当時設計の中に入り込んでいた私の声は聞いてもらえませんでした。 今にして思うに、コスト以上に顧客はカメラ機能を楽しみ、折りたたみを好んで使っていたわけで、それを予想しながら製品化できなかったことは残念で仕方ありません。
 しかし、いまや携帯は財布以上に重要な持ち物になっています。 かさを忘れても、鍵を忘れても、かばんを忘れてもまず携帯を忘れていないか確認するほどのツールになりました。 そして携帯で本を読み、日記を書く時代です。 このような時代、文化を変えてしまった製品の立ち上げ時期に大きく係われたことは会社人生、開発人生で最高の思い出になっています。