Tさんのこと

 Tさんが9月19日に亡くなった。66歳。

 翌日KI先生の写真掲示板で最初に報告があり、夜Jrから着信が入っていた。 Jrには21日朝携帯メールで返信を入れておいた。 オーナーからも電話があり、奥さんと22日の通夜に列席した。MIさん(夫妻?、ともちゃん、孫2人)、NU先生(夫妻)、SA先生(夫妻)、SINさん(夫妻)、MIDさん、YUKの旦那、NAMIさん、ウルマーT、NARU、逗子マリーナのスタッフの方々・・昔の仲間が集まった。 (TA先生は水曜日は当直のため欠席) SASAさん、HAT、NAKAJは裏方役。

 ブームに寄りかかったオレンジのポロシャツの写真がいい雰囲気です。 遺影はラットを持つ姿です。 富士スピードウェイとか、MGカークラブ、逗子・・昔の遊び人の写真がいっぱいです。

★TさんはTパパだったがタダものではなかった。

 ひところうちのクルーにもなっていた。 当時はGib sea 42 だった。 逗子マリーナも昔の桟橋の時代、僕たちは週末と言えばしょっちゅう船に泊まって飲んでいた。 ハーバーで夕方から夜中まで騒いでいるのだ。 Tさんもときおり一緒に泊まってた。 そういえば夏の朝、起き抜けに冷えたビールを飲んでた姿が忘れられない。 朝起き抜けにビールを飲む人を僕は初めて見たのだ。 そういえば、酔っぱらって桟橋に落ちてあばら骨を痛めたこともあったっけ。 なんどか伊豆方面にもクルージングに行ったことがある。 その前はCAEのクルーをしていたはずだ。
 オーナーがFarrの44に買い替えるとき、TさんがGibseaを引き取った。 名前をalcyonとした。 その由来は聞いていない。 当時作ったトレーナーがあるはずなのだが・・

★昔の思いで・・
 携帯電話の黎明期(まだまだポケベルでしたなー)、SA先生が初めてショルダーホンを持っており、その後ハンディーホン(といいつつ大きな本くらい)がヨットクラブのオーナーたちにつかわれた頃、TさんがTACSのハンディーホン(いまの携帯よりちょっと大きいの)を使い始めた。 当時月の契約料だけで30万円くらいしてたと記憶している。 いちおう保険代理店業務をしてた関係上、ときたまお客さんからの電話(事故を起こしちゃった・・とか)を受けていた。 でももっぱら使ってたのは、酒屋に冷えたビールを出前で持ってきてもらったり(当時はまだ発泡酒がないので一箱5,000円ちょっともした)、沖から中華料理の出前を頼んだりしてたのだった。 会社の寮の部屋にも電話は引かれておらず、もんもんとしていた僕にはあこがれの携帯電話だったのだが、給料よりも使用料は高かったのだ。

 TさんはMG-Bを買って乗ってた。当時、NU先生、KI先生もMGに乗っており、軽井沢へオープンで乗せてもらい、MGカークラブのイベントに参加したことがある。 このMGカークラブのたまり場がマヴィーだったのだ。 この店はオーナー(名前を忘れた^^)の趣味のレストランで、HOくんという僕と同い年のシェフが最高のフランス料理を作ってくれるところだった。 30歳になるかならないかのころ、なんどかオーナーやTさんにおごってもらったのだ。
 結局昔から、ああいう料理を食べて、イギリスのオープンカーを都心や軽井沢で乗り回すというライフスタイルがあるところにはあったのだった。 ほんとに遊んでいる人たちはこんなことをやっているということを知った僕だったのです。

 そういえばBMWのバイクも乗り回していたナー。 兄貴さんが高島町でクルマの整備をされている。(T自動車といいます)

 Tさんとグリーン車についても思い出がある。 15年くらい前になるだろうか、東京、新橋で飲んだことがあるが帰り道、Tさんはいつもグリーン車に乗った。 切符を買うときに僕の分も買ってしまうのだ。 確か僕は新橋までの定期だったので、Tさんは乗車券まで買ってくれる。 それまでグリーン車なんて乗ったことはなく、もしかしたらあの時が初めてだったかもしれない。 もちろんグリーン車自体は今とほとんど変わらないが、酔っぱらった時にグリーン車で帰るのは最高の気分だった。 おかげさまで最近でも家族で遠出をする時は「たまにしか乗らないのだから、いいでしょ」と言いつつグリーン車に乗っている。  ある意味、Tさんには”お金の使い方”というのを教えてもらったような気がしている。

 15年くらい前になるが、Tさんにはダットラを探してもらった。 なんたって日産のディーラー関係には友達(子分?)が多いのだ。 最初に買ったファミリアターボの調子が悪くなり、オフロードのバイクも乗り始めていたので、それを積んで遠征に行けるクルマが欲しかったのだ。 オール込みで80万円としてもらって、うしろに白い純正のバーを12万円で付けてもらった。 私が30歳の頃、Jr(当時20歳くらい)、KI先生(40過ぎ)、デイブ(?)とチームを組んで、河原(神川橋とか)で練習したり、富士のオフロードコースを泥まみれになって走ったのだ。(バイクはいちど足の甲を骨折していらいやめてしまったのだが・・)

 そんなバカばかりやっていた我々をそれなりに暖かく見守ってくれていた、そんなTパパだったのだ。

 翌日の告別式には参列しなかったのだが、最後フォグホーンを鳴らしたようだ。 その場にいたら大泣きだったと思う。 こうやって文章を書いているだけでも涙がでてくる。